株式会社シクロケム
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シクロデキストリンとともに歩んで。その道程と現況(1)

世界に先駆けて日本がシクロデキストリンの工業生産に成功

30年ほど前からシクロデキストリンの研究に携わり、現在、東京大学先端科学技術研究センター教授であり、日本シクロデキストリン学会会長を務める小宮山真先生が、第2回目のゲストです。今回は、小宮山先生とシクロデキストリンとの出合いに始まり、シクロデキストリンが広く利用されるようになるまでの足跡を語り合いました。遠い日を懐かしむ小宮山先生の表情が印象的でした。

2008年8月掲載(この記事の内容は取材当時の情報です。)

小宮山 真さん

東京大学 先端科学技術研究センター教授・工学博士

'75年東京大学工学部工業化学科博士課程修了。東京大学工学博士号取得。専門は生物有機化学、生物無機化学、高分子化学。'75~'79年米国ノースウエスタン大学博士研究員、'79年東京大学工学部助手、'87年筑波大学物質工学系助教授、'91年東京大学工学部教授を経て、'00年東京大学先端科学技術研究センター教授に就任。日本シクロデキストリン学会会長。昭和57年度日本化学会進歩賞、第4回日本IBM科学賞、第8回希士類学会賞、第13回井上学術賞、平成12年度高分子学会賞、2003年度日本シクロデキストリン学会賞を受賞。原著論文約500編、総説約100編、著書13編を発表・発行。

寺尾啓二

(株)シクロケム代表取締役 工学博士 

'86年京都大学院工学研究科博士課程修了。京都大学工学博士号取得。専門は勇気合成化学。ドイツワッカーケミー社ミュンヘン本社、ワッカーケミカルズイーストアジア(株)勤務を経て、'02年(株)シクロケム設立、代表取締役に就任。東京農工大学客員教授、日本シクロデキストリン学会理事、日本シクロデキストリン工業副会長などを兼任。趣味はテニス。

シクロデキストリンに関する初めてのまとまった本『シクロデキストリンの化学』をベンダー教授と共著

寺尾:さっそくですが、小宮山先生がシクロデキストリンと関わるようになったきっかけはどんなことだったのでしょうか。

小宮山:僕はいまから30数年前(1975年)、大学院(東京大学工学部)を卒業後、博士研究員として4年間、米国ノースウエスタン大学のM. L. ベンダー教授の研究室に籍を置きました。ベンダー先生は酵素の反応機構を追っていて、シクロデキストリンも酵素モデルのひとつとして使っていました。僕は元来、ポリマーが専門で、別のことを手掛けていたのですが、半年ぐらい経った頃、ベンダー先生に「シクロデキストリンを何でやらせないのか」と質問したところ、「やる気があるのか」と。この会話に端を発して、僕とシクロデキストリンとの長い付き合いが始まりました。
そしてラッキーなことに間もなく、出版社からベンダー教授のもとに、シクロデキストリンの本を書いてほしいとの依頼があり、僕が手伝うことになりました。その本が、『シクロデキストリンの化学』(M. L. ベンダー・M. コミヤマ 著/平井英史・小宮山真 訳:学会出版センター刊)です。

寺尾:シクロデキストリンに関する、初めてのまとまった本でしたね。シクロデキストリンを手掛けようと思えば、誰でも、まずはこの本からスタートしたものでした。

小宮山:当時、僕の知識がまだ不十分だったことが「功を奏して」、この本は薄くて、やさしいので、初めての人にもとっつきやすいのが何といってもいいところです(笑)。原著は英語で書いているので、日本語訳のものはもっと薄い。それだけに、シクロデキストリンの素晴らしさが必ずしも十分には出ておらず、シクロデキストリンには申し訳ないことをしたと思っています。寺尾先生のような、よく知っている人が書いたら相当、ボリュームのある立派な本になっていたでしょうね。実際、この本の10年ほど後に出版された、ツェイトリ先生が書いた本はかなりの厚さです。読むのは大変ですが……。

寺尾:小宮山先生は加水分解反応の人工酵素モデルについて研究されていたわけですが、私は逆というか、水の中で分子と分子を簡単にくっつけることのできる新規な脱水縮合剤を開発していましたので、シクロデキストリンに絡めて脱水縮合反応の人工酵素モデルを合成しました。今年(2008年)2月に出版された『シクロデキストリンの応用技術』(小宮山真・寺尾啓二監修 シーエムシー出版刊)の中で、私が執筆を担当した“第21章 有機合成・触媒反応とその工業化ポテンシャル”でも、この「アシル基転移酵素モデル(シクロデキストリンのよる基質特異的アミド化反応)」について紹介しています。

小宮山:ベンダー研で、僕は酵素モデルを扱っていたので、反応基質のエステルを一生懸命に合成して、きれいにして、元素分析をとって、そして壊して、結局は元に戻るということをやっていたわけです。次第に、自分は何をやっているのだろうと思うようになり……。それで、日本に戻ってからは、シクロデキストリンを使って有機合成反応を手掛けるのですが、たとえば1分子の目的物をつくるのに、3~4分子の塩ができてしまい、効率が悪いことこの上ないのですね、これが。

寺尾:問題はそこなんです。石油絡みの大手企業なども注目したシクロデキストリンの応用開発がありますよね。シクロデキストリンを使えば、安価なナフタレンから選択的に高価なナフタレンジカルボン酸に変換できる。そのナフタレンジカルボン酸は、PETに代わる耐熱性容器に向けたPENという有用ポリマーの大変重要な原料ですので注目に値するのですが、大幅に塩を副生してしまうのがネックになっているわけです。「安いものを使って行く」ということでは面白いですけどね。

小宮山:アカデミックにはもちろんこのシクロデキストリンによる製造法も成り立つと考えられます。しかし、工業的にみた場合、これが全然、成り立ちそうもない。それで、他のモノを使った方がいいということになります。そのため、化学工業分野でシクロデキストリンを利用しようとするとなかなか難しく、結局、医薬品やサプリメントの分野がいいということになりますね。

寺尾:それにつけても、有機化学を専門に選んでよかったと思う点のひとつは、幅広い分野に関われることです。同じ理系でも、電気や建築となると、そこから抜けることができないわけですから。

小宮山:「亀の甲(構造式)がどうにも苦手だという人は」という注釈が必要でしょうが。


α、β、γ、3種すべてを選択的に合成する方法の開発に成功。シクロデキストリンの研究・開発の進化の転換点に

寺尾:人工酵素の世界的な権威であるベンダー教授はどんな方でしたか。

小宮山:たいへん優しい人でした。僕は結婚式を挙げて、ハネムーンでハワイに行き、そのまま留学先に渡りました。ですから、帰国するまで4年間、新婚旅行に行っていたといっています(笑)。ベンダー教授、僕も家内も本当の子どものように可愛がってくれました。若い頃は切れ者にふさわしく話し方も早かったということですが、体を壊してから、ゆっくりと話すようになったそうで、僕が会った頃は、随分スローテンポな英語を話していました。
留学した初日に、ベンダー教授が「建物の中でいちばん大事なところへ連れて行こう」というので、緊張して後をついて行くと、そこはコーヒー・コーナーでした。また、論文などをみてもらうと、そんなはずないのに、「おまえの英語はうまい」と誉めてくれたものです。いつでも、「You can do it!」と応援してくれる先生でした。すると、“豚もおだてりゃ、木に登る”のたとえ通り、こちらはその気になってますます頑張れるんですね。それから、こんなこともありました。毎週30分間、マンツーマンでディスカッションの時間があるのですが、その折、「野球が好きだ」と話したことから、野球場によく連れて行ってくれました。その野球場はいま、日本人の福留選手が活躍しているシカゴカブスの本拠地で、当時は無敵の「弱さ」を誇っていました。ベンダー教授の奥さんがまた、とてもやさしく面倒見のいい人で、必要があると役所でもどこでも一緒に行ってくれて、テキパキといろいろ交渉してくれました。

寺尾:ベンダー教授は、人間味豊かな素晴らしい方だったようですね。

小宮山:その通りです。ところで、寺尾先生と僕とは20歳近く違うのかなと思っていたら、10歳ぐらいでしたね。僕が大学3年生のときに、あの安田講堂事件がありました。その頃、寺尾さんはまだ小学校の高学年だったことになりますね。

寺尾:そういうと隔世の感があるように聞こえますが、私の時代はまだ、博士論文を提出するのにタイプで打ったものしか受け付けてもらえませんでした。パソコンもあるにはありましたが、初期の頃でしたから、ドット数の関係で印刷が不可能で、無用の長物という存在でした。私の恩師である植村先生が論文に直しを入れてくれるのですが、直しが入るたびに、最初から打ち直さなければならないのがきつかったですね。結婚前の妻が別の教授の秘書をしていてタイプが得意だったものですから、よく手伝ってもらいました。

小宮山:論文の投稿の際なども、1行といえども文章を新たに挿入する必要が出たりすると、やはり打ち直さないといけないわけです。それで、あらかじめ、1頁に打つ量を少なめに整えるように工夫していました。

寺尾:タイプで苦しめられたのは僕らが最後の時代だと思います。パソコンが進化する次の世代とは段違いで、いまの学生はその意味でホント、ラクができていると思います。

小宮山:時代が違うといえば、シクロデキストリンがいまのように着目されることになるとは思いませんでしたね。シクロデキストリンそのものは1891年に発見されていますが、基礎から応用にわたる研究に活用されるようになるのは、1903年にシャーディンガーにより分離精製法が見出されてからです。僕がベンダー研にいた頃も、分離法、すなわち沈殿法を利用していました。要するに、シクロデキストリンの混合物に、ある溶媒を加え、α-シクロデキストリンを分離・分解し、次にまた違う溶媒を加え、β-シクロデキストリンを分離・分解して取り出していたのです。ただし、γ-シクロデキストリンは分離しようがありませんでした。

寺尾:世界に先駆けて1976年、日本食品化工(株)が工業生産に成功するまでは、そういう状態でしたよね。工場生産されるようになっても、大量につくられるのは、β-シクロデキストリン、およびα、β、γ、3種のシクロデキストリンの混合物。純粋なαやγは大変高価で、とりわけγは1㎏当たり100万円以上するほどでした。

小宮山:研究室サイドからいえば、量産されるようになっても、β-シクロデキストリンは水に溶けないので使いにくいし、α-シクロデキストリンは使いやすくても決して安くないし、γ-シクロデキストリンは高価過ぎて無いに等しい存在でした。このままならない状況を好転させてくれたのが、ワッカーケミー社のゲーハート・シュミット。彼は1990年、α、β、γ、3種すべてを選択的に合成する方法の開発に成功したのです。この功績は、凄いと思いますね。

寺尾:私は大学院(京都大学大学院工学研究科)を卒業後、専門の有機合成化学を生かすのに最適と考え、ワッカーケミー社(ミュンヘン本社)に入社しました。ここでゲーハートに出会い、公私にわたる付き合いが始まりました。1999年、会社は満を持して米国アイオア州にα、β、γのシクロデキストリンが選択的に製造できる世界最大の生産工場を開設。いまでも、これら3種のシクロデキストリンは、ここでしか大量生産されていないはずです。

小宮山:純粋なα、β、γのシクロデキストリンがそれぞれ大量に、しかも手頃な価格で入手できるようになったおかげで、研究の分野でも産業の世界でもシクロデキストリンへの注目度はもとより、研究・開発の成果がグンと上がりました。何度もいいますが、ゲーハートの功績は偉大です。


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