14. 10周年特別企画
シクロケムの「科学」を紹介
 
13. スーパービタミンE“トコトリエノール”の可能性
 
  矢野 友啓さん
東洋大学生命科学部食環境科学科教授・薬学博士
12. 抗がんサプリメントとシクロデキストリン
 
  福田 一典さん
銀座東京クリニック院長
11. 高分子微粒子とシクロデキストリンの関係
 
  川口 春馬さん
神奈川大学工学部特任教授・慶応義塾大学名誉教授・工学博士
10. 補完代替医療(健康食品)の現況と今後
 
  大野 智さん
東京女子医科大学国際統合医科学インスティテュート特任准教授・医学博士
09. マヌカハニーとシクロデキストリンの相乗効果
 
  ゲーハート・シュミットさん
トーマス・ヘンレさん
ケリー・ポールさん
08. 植物のニオイとシクロデキストリン
  西村 弘行さん
  西村 弘行さん
東海大学副学長
(北海道キャンパス担当)
07. ニュージーランド産「プロポリス」とNF(神経線維腫症)治療効果
  丸田 浩さん
第1回
丸田 浩さん
ニュージーランドのマヌカヘルス社が販売するプロポリスが縁で知り合うことに
第2回
丸田 浩さん
RASがんの抗がん剤をつくるにはRASそのものを抑える方法とPAKを遮断する方法がある
第3回
丸田 浩さん
世界でNFの患者さん150人以上がニュージーランド産「プロポリス」を試験中
06. 高分子とシクロデキストリンの遭遇
  椿本 恒雄さん
  椿本 恒雄さん
元・日宝化学(株)
取締役社長
05. 農学とシクロデキストリンの接点
  平田 豊さん
  平田 豊さん
東京農工大学農学府
教授・農学博士
04. マヌカハニーとその抗菌物質MGO(食物メチルグリオキサール)
  ケリー・ポールさん
  ケリー・ポールさん
マヌカヘルス
ニュージーランド(株)
CEO
03. α、β、γ、各種シクロデキストリンの選択的製造を可能に
  ゲーハート・シュミットさん
  ゲーハート・シュミットさん
ワッカーケミー社
ミュンヘン本社
ファインケミカル部門社長 生物学博士
02. シクロデキストリンとともに歩んで。その道程と現況
  小宮山 真さん
  小宮山 真さん
東京大学 先端科学技術研究センター
教授・工学博士
01. サプリメントの現代事情とシクロデキストリン
  堀 美智子さん
  堀 美智子さん
医療情報研究所
(株)エス・アイ・シー
取締役
医薬情報部門責任者

サイエンストーク 科学の現場

ニュージランド産「プロポリス」とNF(神経繊維)治療効果 第1回(全3回) ニュージーランドのマヌカヘルス社が販売するプロポリスが縁で知り合うことに

今回のゲストはポスドクで渡米して以来、現在に至るまで36年間、主に医科学の研究者として海外で研究生活を送られている丸田浩先生です。 ここ20年余りは、RASがん(RAS遺伝子の変異のより発生する悪性腫瘍) とNF(神経線維腫症)を中心とする研究に携わっておられます。ふたりは、ニュージーランドのマヌカヘルス社が販売するプロポリスが縁で知り合うことに。丸田先生が日本に帰国されているさなかに対談を行いました。これまでの研究についてお話をうかがうとともに、これから協力し合っていこうと、新しい展開へとつながっていった対談を3回に分けてご紹介します。ときどき思わず口に出た英語を日本語に訳しながら話される様子に、海外生活の長さがしのばれました。

プロフィール

海外での長い研究生活のスタートは米国のNIH(国立衛生研究所)から

寺尾 丸田先生は、東大で博士課程(薬学博士号取得)を修了後に渡米して以来、ずっと海外で研究生活を送られてきているわけですね。
丸田 博士課程を終了後、1年間は、水野伝一先生が主宰する「微生物薬品化学教室」に残って助手を務めました。毎年、当教室で博士号を取得した者のうちひとりは必ず助手を担当することになっていて、私の年は私ひとりだったものですから、自動的に決まってしまいました。
通常では、その後、海外出張ということで2~3年間、海外で研究に携わり、帰国後、新しい仕事に就くというのが決まりのコースになっていました。私は海外出張に出たまま日本に戻らずに、ずっと海外で研究を続けることを選んだわけです。
寺尾 最初は、どちらに行かれたのですか。
丸田 首都ワシントンに近い、メリーランド州ベセスダにある医学関係の国立研究センター、「NIH (National Institutes of Health:国立衛生研究所)」に入りました。ここに7年間在籍し、それからドイツ(当時、西ドイツ)のミュンヘンに行って「マックス・プランク研究所」で5年間過ごし、再びアメリカに戻って、エール大学やサンディエゴのカリフォルニア大学に所属しました。そしてその3~4年後に思い切って、豪州メルボルンの「ルードビッヒがん研究所」に転勤する決心をしました。ここに18年間在籍した後、2006年から現在まで、新しい研究グループで、独自の研究活動を行なっています。
NIHやマックス・プランク研究所では、それ以上長く在籍しようとすると、国籍を変えなければならなかったので、それが、移籍の大きな理由のひとつになっています。私の我がままなんですけど、日本国籍をもったままで、海外で研究したかったものですから。ルードビッヒがん研究所は、米国の原油タンカー王で知られるダニエル・ルードビッヒ氏が1973年に創立した国際的な民間の研究所なので、国籍は問われません。それで在籍年数に限度はありませんでした(笑)。
寺尾 NIHはあらゆる分野を網羅している大規模な研究所として世界的に有名ですけど、シクロデキストリンの数少ない著名な研究者のひとりとして知られるドクター・ピーター教授も、ここに在籍していました。
丸田 世界一大きなキャンパスで、当時、ポスドクだけでも1000人以上いましたし、何かやろうとすると、必ずといっていいほど、誰か研究者がいました。私は大学院の時代、免疫細胞の一種であるマクロファージ(貪食細胞)の研究に携わっていたのですが、この細胞は、貪食作用といって、バクテリアなど動いているものを食べるわけです。
そこで、NIHでは、アメーバを使って細胞運動のメカニズムを生化学的に新しく研究しようと考えていたら、そういうことに取り組んでいるところがちゃんとありました。これに端を発して、メルボルンに行くまでの約15年間は、主にアメーバを使って、筋収縮に関わるミオシンやアクチンの機能をコントロールするタンパクの生化学を研究することになりました。
寺尾 筋肉はミオシンとアクチンという2種類のタンパク線維が、相互に滑りあって収縮するしくみですね。
丸田 そのメカニズムとして、ミオシンが、アクチンの刺激によって、ATPを分解して得た化学エネルギーを運動エネルギーに変えることがわかっています。私の研究について簡単に紹介すると、元々の発端は、私の前任者トム・ポラード(その後、ハーバード大学の助教授に就任)が、土壌アメーバを使って、単頭のミオシンのATPase 活性をアクチンで活性化させるために必要な第3のタンパクを見つけたことに始まります。
哺乳類のミオシンは双頭なのですが、アメーバではそれ以外に単頭のミオシンを持ちます。要は、この第3のタンパクの正体を解明するという課題を与えられたのです。2~3年間は四苦八苦していましたが、最終的にはそれがミオシンの重鎖をリン酸化する珍しいタンパクキナーゼであることを発見しました。なお、同じ頃NIHの他のグループが、双頭のミオシンの軽鎖をリン酸化するのに必要なプロテンキナーゼを発見しています。

偶然の一致がきっかけで、豪州で働くことに発がん遺伝子であるRASの研究へ移行

寺尾 ドイツに移ってからはどのような研究をなさったのですか。
丸田 1980年頃は遺伝子工学が脚光を浴び始めていて、 私も新しいものに関心があったものですから、ミオシンの遺伝学をやろうと思いました。ドイツのマックス・プランク研究所には、細胞性粘菌の生化学のオーソリティがいたので、ちょうどいいと思いました。細胞性粘菌はアメーバの状態の時期と、分化して植物的な多細胞の状態になる時期があり、半数体 (染色体が一対の半分) なため、ミュータント(変異体) が容易に取れます。
そこで、この粘菌アメーバを使って、ミオシンやその他のアクチン結合タンパクに変異をかけて、その機能を遺伝学的に調べることにしました。さらに、正常な哺乳類細胞をウイルスでがん化させると、ミオシンやアクチンの形態が変わることが判明したので、がん化のメカニズムの解明に通ずるのではないかと期待して研究に取り組みました。しかし、これはトンネルのど真ん中で立ち往生を余儀なくされるカタチで頓挫してしまいました。当時は、発がん遺伝子や抗がん遺伝子の存在もまだ明らかになっていませんでしたから、やむを得なかったと思っています。
寺尾 アメリカに戻ってからは、大学に所属したということでしたね。
丸田 そうです。ここで、遺伝子学のテクノロジーを基礎からマスターしました。それはよかったのですが、教育者には向いていないようで、何といっても答案の採点が嫌いですし、研究費の申請書を書くのも苦手でして…(笑)。
寺尾 次にオーストラリアに行って、ここからはアメーバを離れて、研究の対象が大きく変わることになるわけですね。
丸田 1988年、豪州が建国200年祭を祝っている最中に、メルボルンに渡るとともに、研究テーマは、発がん遺伝子であるRASに移行します。メルボルンに行くことになったきっかけは、ハネムーンでした(笑)。妻はアメリカ人で、私と出会ったときはサンディエゴに住んでいましたが、以前メルボルンで14年間近く、数学の教師をしながら、女手ひとつで4人の子どもを立派に大学卒業まで育てあげた経歴をもちます。それで、彼女の子どもたちに初めて会うために、私はメルボルンをハネムーン先に選んだのです。
ちょうどその頃、『ネイチャー』にルードビッヒがん研究所のメルボルン支部がキナーゼの専門家の募集を掲載しているのを目にして、せっかく当地を訪ねるついでに、軽い気持ちで応募してみることにしました。当日のセミナー後、所長と雑談をしているうちに、彼がマクロファージの専門家であることがわかりました。所長室には食細胞の名付け親でもあるイリヤ・メチニコフの写真が飾ってあったのです。先にも述べたように、私は大学院でマクロファージの研究をしていましたし、またイリヤ・メチニコフは私が敬愛するポール・エーリッヒと共に、1908年にノーベル生理・医学賞を受賞しています。それを話すと、「意外な一致!」と、お互いに浅からぬ縁を感じて意気投合し、その日のうちに、一緒に研究を始めようということに決まってしまったのです。
寺尾 ちょっと調べてみたのですが、ポール・エーリッヒは血液学をはじめ、免疫学、化学療法の基礎を築くとともに、細菌学や医科学の分野で数多くの新技法を考案した研究者として知られているそうですね。結核菌やコレラ菌の発見者であるロベルト・コッホの研究室に招かれたこともあるということですが、梅毒の特効薬サルバルサンを発見したということで知っている人が多いかも知れません。
丸田 実はポール・エーリッヒは、私の人生航路を決めた人でもあります。高校時代、私が最も関心を持っていたのは、絵を描くことでした。両親は内心、絵では食べていけないのではと心配している様子でしたが、何もいいませんでしたし、プレッシャーをかけることもありませんでした。
そのころ、東京・神田の古本屋でたまたま手にしたのが、ポール・エーリッヒの伝記でした。その本には、彼が組織染色のエキスパートであり、いろいろな色素で組織を染色して病源体による感染状態を調べていたということが書いてありました。そして、梅毒菌に親和性をもつアニリン色素に有毒な砒酸を結合させて、「サルバルサン」という薬の開発に成功し、化学療法の父と呼ばれるようになりました。今からちょうど100年前の話です。「色素」の文字に、これだ! と閃きました。そこで、「がんに特異的な親和性を示す色素の誘導体から制がん剤を開発しよう」などと夢をふくまらせながら、芸大から東大へ志望校を変えたというわけです(笑)。
寺尾 そういう心境の変化があったのですね。ところで、ルードビッヒがん研究所の所長とのいきさつについて、奥さんの反応はどうだったのですか。
丸田 「メルボルンで仕事をしていいだろうか」と聞いたら、「OK」ということでした。そのときは、妻も後から来るという積りだったようですが、彼女は常春のサンディエゴの海で数マイル泳ぐのを日課にしており、メルボルンの冬の海は冷た過ぎ、結局「お互いに好きなところで好きなことをしよう」ということで、私はずっと単身赴任を続けることになりました。クリスマスや感謝祭、彼女の誕生日などはアメリカに戻ります。お互いに個性が強いですから、ある一定の距離をおいた結婚生活がかえって幸いしたようで、20年以上、いまも仲良く続いています(笑)。
寺尾 大人の余裕ですね(笑)。では、ルードビッヒがん研究で始まったRASの研究については、次回、詳しくお話いただきたいと思います。
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